臨床の信条

精神分析家としてクライエントに向かい合うときに、目指しているものは何かという質問をいただきました。なかなか考えさせられる質問ですが、ひとつ思い浮かぶのは、互いに本音を言い合える関係、そして互いに相手の思いを理解しようと努力し合える関係を築くということでしょうか。そういう関係になって、そういう発言ができる文脈が訪れたら、自分の言葉が相手の人生にとって意味を持つかもしれないと思うのです。

ところで、この信条には、ひとつの前提となるアイデアが含まれています。カウンセリングにおいても、心理療法においても、セラピストがクライエントを一方的に共感し、理解しようとしても、うまくはいかない。共感し、理解しようとする努力は、双方が両方向から払う必要があると思うのです。セラピーの成否を、半分クライエントに委ねてしまっているみたいで、頼りないセラピストだと思われるかもしれませんが、クライエントの協力なしにセラピーは成功しないということは、真実として譲れないと思っています。

(質問箱211231-220102)

多能性専門職モデル

これからの心理専門職の教育では、個人心理療法をベースにしない方が効率的ではないかという意見が、若い人や公認心理師の間で広まっているが、どう思うかと尋ねられました。これについての私の考えは少し複雑です。まず、現在大学院で行われている相談室での実習教育は、「(個人)心理療法」の教育ではないと思っています。その名称、「心理相談室」「心理相談センター」などの名が表しているように、しているのは心理に関する相談を受ける仕事で、そこに種々の心理療法の理論を応用しているということです。次に、そこで学んだ相談のやり方は、現場に出たとき、そのまま実行するわけにはいかず、その現場、機関、組織が目指している目的や条件、そこに訪れる利用者の特質に応じて、やり方を再編する必要があります。この点が、社会の中で十分に共有された認識になっていないことが問題だと思っています。

 さて、ここでご質問のポイントですが、現在行われている個人心理「相談」の実習は、特定の心理療法を学ぶには不十分であり、また、即現場で実践できるものではないけれども、それを抜きに、心理士の養成が可能かと考えると、それは難しいのではないでしょうか。資格取得後に、どのような現場で働くにしても、利用者個人の相談に応じ、利用者と信頼関係を築き、利用者のためになるコミュニケーションを続けるための基本姿勢を学んでいない公認心理師を、社会は求めていないと思います。  もちろん、現在の教育が十分であるとは考えていません。心理的アセスメントの能力、集団に関わる能力、学んでいることの限界を理解し、現場のニーズに応えるスキームを持たせる必要があると思います。そのためには、学部教育との連動が鍵ではないかと考えていますが、大学という教育機関が抱える諸事情との兼ね合いで、一筋縄ではいかないというのが実感です。

(質問箱220121‐220123)

COPモデル

若手の心理士の方から、「職場で見立てを他職種の人に伝えても、なかなかうまく理解してもらえない。どのようにして力をつければよいか。」という質問を受けました。私の場合、出発は少年鑑別所で、そのあと、学生相談、病院の思春期外来、警察のシンナー相談、スクールカウンセラー、少年院の篤志面接、災害支援、児童養護施設、児童心理治療施設のスーパーバイザーなど経験しましたが、ちゃんと見立てができて、現場の他職種に役に立つ伝え方ができるようになるには、少なくとも10数年かかったように思っています。(本当は今やっと、と答えたいぐらいなのですが)

それでは、力をつけるために必要なことは何かと考えると、とにかく現場の他職種のひととの対話を続けることだと思います。相談室モデルの内輪の議論は、外では理解されない恨み節と、裏返った思い上がりの空回りに終わるきらいがあります。私の場合、その点で最も役に立ったのは、家裁、鑑別所、少年院、保護観察所、警察、児相、その他種々の施設の方々がゲリラ的に集まる「非行研」という研究会です。毎年1回、泊りがけで、30年以上続けてきました。メンバーの高齢化と、非行少年の減少により、存続が危ぶまれていますが、今でも貴重な学びの場となっています。

(質問箱220120-220121)